昭和41年11月15日 朝の御理解



 おかげの道を辿らしてもらう。ためにおかげの道を尋ね求めしていかなければいけん。それを求道と、道を求める。ここには信心の稽古に来るところと。どういう稽古をして帰るかと、皆さんそこんところをはっきりしておきませんと、いわゆるおかげの道が開けて参りません。おかげを頂けれる道を尋ねる、道を求める。そのおかげの道を尋ね尋ねしていく、そういうことを求道とこう、道を求める。
 それはどういうことかと言うと、いよいよおかげの道を尋ねるということですから、これにはおかげがずっと着いて行くのである、ね。信心しておかげを受けるのを不思議とは言うまじきものぞと。信心してみかげのない時には、これぞ不思議なることぞとこう仰るように、信心をさして頂きよっても、おかげが着いて来てないような感じがすると、ね。おかげを受けてないような感じがするなら、今私はその、おかげを頂く道を求めていないからだと、おかげを頂く道を歩いていないからということになる。
 椛目に通うて来るということだけが、おかげの道じゃありません。椛目ではそこんところの道を、日々教えて頂くのだから、ひとつのことが問題が解決しない、ね。このことがおかげにならない。それをおかげと感じようと思うけれども、おかげと感じられない。ならば、私はそのおかげの道というものを、私共が求めていない、ね、おかげの道を歩いていっていないということ。でどうしておかげが受けられんであろうかというのは、久留米に行きたいと思うけれども。
 ちゃあんと善導寺の(?)ばっか行ってから、うろうろしておるようなもんじゃないでしょうか。いや本当言うたらもう、そこの千本杉にまで行っとる、それがまぁあの辺でぐずぐずしておると言った様な事はないでしょうか。久留米の真ん中に出たいと思うならば、国鉄なら国鉄のいよいよ汽車に乗られる、停車場なら停車場を目指していくならばです、やはりそこんところをぐるぐる回らずに、いわゆるこれから国鉄はどこへ、どちらへ行ったらいいでしょうかと。
 ならどこへ向かって行ったらいいでしょうかと言うて、尋ねていかなければです、いつまで経っても停車場の方からこっちにやって来んと。ひとつのおかげということを、皆さんが心に願っておられるならです、そのおかげの方へ向かって進んでいかなければ、その進んでいく道を皆さんが体得しなければ、ね、またそして行じていかなければ出来んのです。元気な心で信心せよと、ね、同行二人と、ね。「神われと共にあり」と言った様な事を申します。
 なぜ元気な心で信心しなければいけんのか、ね。なぜ神様とわれと共にある、神様がいつも私を、側におって頂くんだという、そこんところが分からせて頂いたら、神様がいつも私を眺めござるとです、ね。やはり神様から笑われぬように、神様からこら違うとるじゃないかと言われるように、ね、全てのことを実意をもって、丁寧に話していかなければいけんのだけれども、元気な心がない。それを行じようという元気な心がない。口だけでは言いよるけれども、「われ神と共にあり」という実感が薄い、ない。
 どんなに神様の御教えと反対のことをしておっても平気。これでおかげのところに出られる筈はないでしょうが、ね。そこんところを誤魔化してです、そしておかげを頂こうと言う様な、浅ましい心じゃおかげ頂かれんです、ね。そこんところをいい加減にしてです、おかげを下さい、おかげを下さいと言うたって、おかげだめです、ね。ほんの難しいことであるなら、一年生なら一年生なりにです、言わば小学校は小学校なり、高校は高校なり、大学生は大学生なりにです、行くのですから難しいことじゃない。
 幼稚園なり幼稚園なりだから。それを私はいつまで経っても、もう言わば中学なら中学のことが分かっておりながら、幼稚園でもせんようなことを、平気でしたり言うたりしておって、どうしておかげが受けられる筈がないじゃないかと、ね。なるほど、生き生きとした元気な心がなからなければです、それをそれなりのものであっては、そのことだけでも行じることは出来るのです。ああしてこうすりゃおかげ頂くけれどもと、分かっておっても元気な心がないから出来んのです。神様が本当に見てござる。
 昨日、久留米の佐田さんがお参りして来てからです、そういう言葉を使ってた。先生もう恐れ入ってしまいます。もう本当に神様からお母さんたちと(?)話したっちゅう訳なんですよね。神様がずうっとこう、良しにつけあしにつけ、もう付け過ぎてからもう見張りしてござるごたる感じ。もうこちらの心次第なんです。神様はこの全員の側に生き生きとして現われてござる事が分る。様々な事柄をもってです、ほんな事のう、神様がいござるごたるですね。っちゅってから私に聞かせて頂いた事でした、ね。
 そういう、私は実感をもってです、ね、一日が私は過ごしていかれなければだめだとこう思うです。私共はひとつ考えないかんようなものがあるです、全体、私を始めとしてですね、これはもう、本当に自分は大学生と思うとる、ならひとつなら小学生のところからやり直さないかんと。自分が中学生と思うたら、幼稚園からやり直さないかんと。幼稚園の生徒でもせんような事をしたり、言うたりしておるんだもん。これではおかげの頂けるはずがない。
 なら初めから私は幼稚園生でございますと、まあだ幼稚園で何も分かりませんと言うのならまだ分かる。本当に幼稚園のひとつ、生徒げな所からひとつ、やり直さして貰う。初めからやり直すと、信心をやり直すと。そう言う様なひとつ信心をさして貰って、そして初めて教えを頂くような気持ちで、幼稚園は幼稚園なりにやっぱりその、補導する人達が、そのいろんな事を教えられて、そのひとつ覚えていくという楽しみというものをです、まぁ一遍身に付けて、付け直していかなければいけんのじゃないかと。
 昨夜の御理解に何とうなしに聞いてもらったんですけれども、私共が願いとするところ、その願いとすることが信心が、段々成長して行くに従って、願う内容が変わって来ると、ね。願う内容が変わって来ると言う事は、ね、高尚な事が願えれる様になると、仏壇の道を覚えたと言った様な事ではなくてです、ね、ひとつひとつ願うたことが成就していく、願ったことが叶うていって、ね、その叶うていったことがです、初めは、ね、おやつ頂だいと言った様な事が、叶えられる、ね。
 自分は勉強したいという願いから、勉強の言わば材料が、このものを与えられると、ね。就職したい、それから就職のことを願わしてもらう。と言う様にその自分の願いのそのひとつひとつが成就しいってです、内容は変わっていくからです、ね、言わばそういう願いが内容が変わっていくということだけでも、思うただけでも楽しいじゃないかという御理解だった。自分の願いというものが段々こう成就していく。まぁ例えて言うならば、木下藤吉朗、太閤と。
 木下藤吉朗が初めからです、私は漠然とした願いは、誰だってもってるかもしれません、なら子供ん時に俺はもう大臣になるとか、俺は大将になるとか、と言う様なそう言う様な誰だってありますよね、夢のようなものが。けれども私は本当に私は一番始めから侍になろうとか、大名になろうとかというのは、その時その時に出来ていった心であろうと私は思うです。
 幸いなことに侍に拾われた。そしてその言わば草履とりをしたと。ほうこれで自分は侍になる糸口が出来たぞと、ここで一生懸命やりゃあ、侍にもなれんことはなかろうと。そこでその草履とりその事を一生懸命に献したと。もう誰も真似ん出来んごたる素晴らしい、それこそ日本一の草履とりになることをです、してみたら、ね、それが認められたんですよ、ね、ただご主人が出られる時に、草履をちょっとこう並べるだけ。ただまっすぐにしてあげるだけ。これだけだったらどげん(?)でもある。
 だからちっとは、ちいっとは違うとるなら草履とりになろう。いう時にその寒中の寒い時でもですね、草履を自分の肌で温めて、そして主人が外へ出られる時にはすぐ、すぐそれをもって温かい。これはお前の尻にしいとったじゃなかか、草履は。と言うてまぁ一時は怒られたけども、実はこの寒いのでございますから、勿体ないことですけれども、あなた様の草履を肌で温めておりましたとこう言う。
 ほうこの草履とりは見所があると誰だってそう思いますよね。草履とりには草履とりのところをです、一生懸命に私は勤めにゃいけん。草履とりのくせに足軽なマネをしたり、侍のマネをしたり、それからお前は横着だということになるのですよ。私共はそれに似たようなことはなかでしょうか、ね。そこで私は今日言っておるのは、本当にひとつその、それも草履とりからをやり直そうとこう言うのです、ね。
 そして神様から認められて、そして足軽なら足軽と言った様に、引き立てられたらです、今度は足軽のところを一生懸命実意をもって丁寧にです、本気でやることなんです。どうでしょうか皆さん 草履とりのところが本気で出来たでしょうか。足軽としてのお役が本当に、努め抜いたでしょうか、ね。いわばこれは自ずと願いというものは変わってくるのです。足軽になった足軽のところを、足軽のしてみなきゃならんところを忠実に陰日なたなしに一生懸命に勤めさして頂いた、ね。
 そして心に願いがまた、はぁ自分は草履取から足軽になれた、一生懸命やったら。ならこれを一国一城の侍にでも、一生懸命努めりゃなれるぞという願いが生き生きとして、藤吉朗の心の中に動いたであろうと。そこで言わば侍の勉強をしながら、足軽の勤めなきゃならん所を一生懸命務めた。それが認められたチャンスがあった、チャンスがきた。いわゆる一国一城の、いわば主人として治める事が出来た。さぁここに一両はあわよくばこれは天下でも取れる様なと、言う様な事に成って来たんじゃなかろうか、ね。
 ですからです、こういうひとつの願いというものがひとつひとつ成就して、はぁこれから先どういうふうなおかげに、なっていくじゃろうかと、思うただけでも楽しいんだと、ね。そのおかげのところだけ楽しまずに、自分の願いというものが成就していく、願いの内容が変わっていく、初めはならほんなの自分のことばっかりじゃった。おかげのお繰り合わせを頂くことばっかりじゃった。自分が幸せを頂くことばっかり頂くことじゃった。それこそみんなです、ね。
 それを切実に、その代わりにです、病気を治して頂きたいならば、病気を治して頂く道を覚えさして頂いて、信心で、ね。その道を、言わば足軽なら足軽のところの道を、一生懸命忠実に表さなければいけない。胃が悪い人が、どうぞ胃を直して下さいと言いながら、大酒大食をする様な事では、おかげに成る筈がないでしょうが、ね。神様にお願いしとるけんで、こんなもん食べたっちゃよかと、それではおかげ頂く筈がないでしょうが。そこにはその道がある。どうぞおかげのお繰り合わせを頂きますように、とにかく百万円がたんのに十万円ばかりの願いをしておって、おかげ頂ける筈はない。
 本当にお金のお繰り合わせを願うならばです、それこそ一銭を笑うものは一銭に泣くのであるから、今こそその一銭があるというのであるから、これから先神様から頂いたら、もう金輪際、この一銭を大事にさして頂くと、言う様な道を本気で覚えなければ、金で、ばっかりしてきたから、金を本当に生かして遣わしてもらう道を覚えさして頂いて、それを生かして使うことを体得していかなければいけんと。
 昨日、若先生が鹿児島から帰って来た。私は少し多いかもしれんけれども、5千円ばっかり持っていけと言って5千円持たしておった。自分では1,2、300円のということだったと。ところが帰って来てから、この人はもう私は幾ら払いましてもですね、もうきちっともう明細が返って来るんです、こんなふうに。もうこんなきちっとしてきます。幾ら貰って幾ら残ったということを、そらもう久留米まで、ちょっと行く様な事でもこげんです、この人。
 ですからもうこの人にはいくら持たしておってもです、まぁどちみち(こげなお金はなか)ちゅって余分に持って行っとかなきゃ寂しかろうとと思うから本当に、一万なら一万円でも持たしてやれれるんです、ね。これが本当にどうでしょうか、もう(?)すりゃ(?)する、必ずこの人ばっかりは。そしていくら使うた、じゃ何に使うたか分からん。そして余ったっちゃお金は持っちゃ来ん。
 なら私はそれは何とうは言わん。けどんならそれこそなら必要なだけしかその代りやらんです。そうでしょうが皆さんだって。無駄遣いする者に何をやりましょうか。乱雑する者に何を持たせましょうか、ね。そこで皆さんなら一億円なら一億円、一億円のお金をですよ、一千万なら一千万のですよ、百万なら百万のですよ、言わばお金を自由に神様から扱う事の出来れるおかげを頂く為には、私は生活にならなきゃだめだと。
 本当にお金のお繰り合わせを頂きたいと願うならです、財産一切が金はもう扱いにならなんまで、だからこれに百万円ぐらい預けとったっちゃ、間違いはないという神様の疑いが、見通しがついた時にです、言わば形の上にも自由が許されるわけなんです。そうでございましょうが、それなら幾ら使うたか分からん、そしてからいらんこと大事に使いよる。もうこんやつには、もう金は持たせられんと言う事になるでしょうが。
 もしこれが豊美、当時の豊美だったら恐らく私はですね、この人ちょっと乱雑するところあるです。それで私がもう必ず必要なだけしか渡さんです、ね。問題は豊美だったらです、まもう本当に帰りは借って帰って来なければならなかったろう思うです、こんどの鹿児島行き。一寸多過ぎると思うてやったところがです、その領収証の金が余ってなかったんです。と言うのはですね、その汽車賃がですね、高いんです。1,050円のそれに300円の急行券ですから、1,350円払っとる、ね。
 ですからその2,700円というのが後ろ、既に旅費だけでしまえとる、ね。だから私が例えば3,000円だけでも渡しとったら本当に( ? )。ざっと1,500円しか余っとりませんからね、ね、そういう例えば難儀な目に遭わなければならんです、神様から本当に信用して預けられ、また私の長男が、私から信用されとるから、ちっとは多過ぎる罰点、5千円持たせとこうとこう思う。また持たせておったから何不自由なしにおかげ頂いて来ておると言うて、まあ贅沢なものは是から先でん使うておらん。
 本当にいくら持たせたっちゃよかたい、という気がするでしょうが。だからですたい、今日私が申しております事はです、本当にお金のお繰り合わせを頂きたい、お金のおかげを頂きたいならばです、ね、お金に自由にさして頂けれると、その道というものは本当に体得しなければいけないて、そこを忠実に、ね。木下藤吉朗がです草履取になった時にはもう本当、草履取としての事を一生懸命努めたように努めにゃいけんて。神様から頂く、ね、千円なら千円の自由を許されたから、その千円をいかに生かすか。
 その千円をいかに尊ばして貰うか、買わして貰うかと言う所をです、しっかりやっていかなければいけんて。すぐに足軽の道が開けた、ね。次にすぐにいよいよ士分たに取りたてられ、一国一城に召された。というように、自分のなしておる事と祈りというものが、こうやって一緒について行かなければいけん。そういう意味で私は自分が後々に、例えば天下国家のことを祈ったところで、おかげ頂く筈がありませんじゃないですか、ね。よくそんな人がありますよ。
 御造営があっておる、どうでも御造営には百万なら百万のおかげを頂きたい。どうぞどうでん、もうそれは神様が喜んで下さる事ではありましょうがね、そういう願いを立てるということは。立てられんはずです。そのおかげの頂けれる道を歩かずしてから、頂ける筈がないですもん。食べ物食べにゃ、使うものは使わにゃん、ね、行くとこにゃ行かにゃん。考えてごらんなさい、これでおかげの頂ける筈が絶対ないですよ。神様それを許しなさるはずはないです。
 特別なおかげを頂きたいと思うならばです、特別な、なるほど、言うなら始末倹約さして頂くような、そういうものがあって願いでなからにゃいかんです。どうぞひとつ皆さんの願いというものがです、ね、願いというものがそのだんだん、ね、まあ最高のところへいったら、人が助かることさえできればというような願い、ね。人が助かる事さえ出来れば、と言う様なその願いがです成就していく。初めて間ほんな自分どん一人助かればよかった。それでほんな、おかげの下さるために信心しとる。
 ただ病気治して頂きたいばっかりで信心したけれども、それでいいのです。そういう願いを立ててもいいです、ね。そしてそういう願いでもです、願いを立てたならばそれが頂けれる道をひとつ求道して、道を求めてその道を歩いていかなければいけんて。その道を歩かずしてただ、病気が治りますように、おかげのお繰り合わせ願うだけじゃいかん。そこにちゃんとおかげの中に健康なら健康の道がついて、おかげを頂いたら、段々信心の稽古をさして頂きよる内に、幼稚園から小学校にならしてもらい。
 小学校から中学校に成らして貰う様に成るとです、その願いの内容というものが段々、もう自ずと変わってこなければ嘘なんだ、変わってくるです。なら例えば私がです、私のことや自分の一家のことやら、まぁだかつて祈うたことないです、ここ20年余りというものは、ね。そしてまぁ現在の私で言うならどげな、まあ皆さんが聞かれたらです、ただまぁある意味合いでは、もう古代妄想教のように、なら書くことかもしれません。異様なこと願っておるかもしれん。
 けれども私のはおかげになるという確信を持ってきとる、一遍一遍、ね。言わば草履とりからやって来とる、足軽になってきとる。士分に取り立てられて、一国一城を夢見て、それが自分のものになった、言うなら天下を、言わばその願いと言う様な願いがです、だから初めからそれを言うならば、あれは馬鹿じゃなかじゃろうかというごたる、ね。いち百姓の子供がです、言わば天下をとると言うたって、それこそ夢のような馬鹿のような話なんですけれどもです。
 ところがそれがひとつひとつ現実で身の上に、ね、それが現われてくる。ならこれが自分の願いこれは夢じゃないぞと、おかげが頂けれるぞと言うです、思うただけでも楽しいような、思うただけでも、はぁ自分のようなこの位な祈りしか出来んけれども。本当に尊い有り難い、神様に喜んで頂くような祈り願いが、段々出来て来る様になるだろうと思うただけでも楽しいという信心にならなければいけないと。
 どうでしょうか皆さん、そこんとこが楽しいような信心が、出来ておるだろうか、でなかったら、もう今日を境にもう一遍、幼稚園に逆戻りして、ね、もう赤裸々にです、ね、自分の心の中、こげなこと願うたらおかしかと言う様な事じゃなくてです、本当にどげなことでもいいから願いなさる。に、ね、これがほしいばってん、もう何年も信心してたらこげなことお願いしたら、先生から笑われたりせんじゃろうかと言う事だったら、絶対おかげ頂かんのです。
 そげなこっちゃ。高尚なことばっかり言うとったっちゃ、おかげ頂かん、ね。痛いなら痛い、痒いなら痒い。本当にそのことを願わせて頂いてです、その願わせて頂いたらです、草履とりにならして頂く事をまず願うたらです、ね、その草履とりとしての一番最高の草履とりにならせて頂く所の、努力をなさいと言う事なんだ。日本一の草履とりになりなさいと言う事です。苦労をしなさいと言う事です。こげな下作か事をお願いしよるなら、その下作っか事でも、ひとつ成就しなければ、自分のもんにならんと。
 ただなら、そのことをお願いさしてもらうところの、ね、言うならおかげを頂くためには、こういう道があるんだという、道を教えて頂くのであるから、また道を求道していくのであるから、ね。そこに私思うことはです、久留米の佐田さんじゃないですけれども、本当に神様が側で見てござるごたる感じという働きを、これに感ずる事が出来るのです。そこで元気な心で信心せよとこう仰るが、ね、元気な心で信心するということはです、ね、例えば幼稚園のような、み易い事でも。
 元気な心を持っておらなければそれをよう行じようとしないのだと。参ることだけは参ったばってん、後は習うて来た事は一つも行じない。元気な心がないから生き生きした心がないからだ、ね。そこに神様の働きを本当に間近に感ずる事が出来るだろうと。いや本当に神様、「神われと共にあり」ということが分かるだろう。そんならその神様、側で見てござるとじゃから、油断は出来ん迂闊な事を言うたりしたりでけんと、いうことも実感的になってくるだろう、ね。
 そしてその願いの、その願いのことのですたい、ね、程度がだんだん高尚になってくれば高尚になってくるだけです、それが実際におかげ頂いてまいりましたらです、ね、本当にそれこそ、人の助かる事さえできればと言った様なです、事を祈れれる内容。どうでしょうか、皆さん人が助かる事さえ出来ればよいと言った様な、そのことが祈れれるようになる。しかもそれが本当に自分の祈り聞いて下さる様になって来たらもう、こげな楽しいことはなかろうと思うて見てご覧なさいよ、ね。
 だからいろんな神様祈れというのじゃない、ね。だからそういう祈りが、祈れれるような内容を、高めていかなければいけない。一つひとつの自分のものにしていかなければならない。ね。木下藤吉朗のその例をもう一遍皆さん、思うてみてですたい、ね、それぞれ草履とりからやり直そうと思うたら、もう本当に日本一の草履とりを目指さにゃ、ね。でなかったら皆さん一生、もううだつの上がらない、金光教信者で終わらんならんですよ。一生草履とりで終わらなんならんですよ、ね。
 もうほんなもう、油ばっかり売ってから、要領ばっかりで、ね、いかにもそれが自分が使うて、自分がね、よかごとあるけれども、楽しよるごたるけれどもです、ね、それではやはり一生、草履とりから上がることはできんて、ね。だから本当に自分が草履とりの自覚になったら、その草履とりとしてのです、まぁそれこそ実意をもって全てのことに気を配らしてもらって、ね。木下藤吉朗じゃないですけれども、自分の腹で主人の草履を温めるくらいな、工夫をひとつさしてもろうて。
 ほうこれはなかなか変わった草履とりじゃあある。これは草履とりにしておくとはおしかと。と言う様にです、ね、主人の目が神様の目がそこに動くような忠実なあり方にならなければいけませんと、ね。そこに足軽にならせて頂いたらです、今度は足軽なら足軽で、そのまた夢が違ってくるって。はぁこれは足軽でこれで一生懸命、本気で務めたらです、侍にでもなれるぞということになってくるでしょうが、ね。だからそこんところを本気で忠実にです、日頃習うておる実意丁寧神信心というのは、こういう場合。
『ここをどう現していくのが実意丁寧かという工夫をです、しなければいけないということを、まぁくどくど申しましたけれど。私は本当に、昨夜からそのことを切実に思うんです、私が、ね。ですから皆さん、なるほどこれではいつまでたっても、今の皆さんのような状態では、おかげの道は本当の意味じゃついてこないです、ね。しかもその本当のおかげの道はついてくればです。
 もう実にこの道を歩いていけば、どげなおかげを頂けるだろうかという、思うだけでも楽しい様なものが、必ず生まれて来る。そこに信心が楽しいと言う事になるのである。いつまで参らんならんじゃろうか、というものがなくなっていって。もう信心が楽しゅうなって来るです、その道を歩いたら、その道に出らなければ、ね。だからもう一遍、草履とりからやり直そうというのが、まぁ私の昨夜から願い、思い続けておる事なんです。
   どうぞ。